2016年01月20日

すでに救ってくれた I've already saved


ひさしぶりの更新です。ことしもどうぞよろしく。

「すでに救ってくれた I've already saved」

は「スターウォーズ ジェダイの帰還」の最後、亡くなる間際の
頭の覆いがとれてしまったダース・ベイダーが、息子ルークに云
う言葉です。

威圧的な外見の下には傷ついた素顔や身体が隠されており、父子の
和解は片方が命をさしだすことによってなし遂げられ、そして、犠
牲になった方が救われる…という、逆説的な展開を象徴するこの台
詞、ものすごく好きなのです。(「和解」というものは、ときには
「命」とひきかえになるような大きなこと…という意味にもとれま
すし、子どもを「産む」ということはそれだけで、「命」をさしだ
すような行為である…というふうにも受け取れます。いずれにしても
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」…ひとが「身を捨てて」受けとる
ことのできる「果実」はなんなのか…この台詞はいつも考えさせてく
れます)

[6]の最後、帝国軍を倒し「宇宙活劇」的には大団円でしたが、
ルーク本人としてはどうだったのでしょう。父との邂逅と和解はほん
の一瞬で、その後の彼の胸のうちの「寂しさ」は、まさに「暗黒面」
に裏打ちされたような、「暗黒面」と「明るい面」のはざまにつねに
いるような、そしてそのようなじぶんを簡単には仲間にさらけだすこ
とができない「寂しさ」へと変質していったのではないでしょうか。
それが「神話の終わり」だったのです。

っていうか、なんでいまごろ「ジェダイの帰還」。
まあ先日「スターウォーズ フォースの覚醒」を見たことで、シリーズ
のあれこれを、ほんとうにさまざま思いだしました。

いちばんさいしょの「スターウォーズ」を見たのは中学生の時でした。
京都は小さな街でしたから、夕飯を食べてから、兄と連れ立って繁華
街の映画館の最終回を見にでかけました。
それでもう映画の全てに唖然としてしまって、翌日また兄妹で映画館に
もう一度見にでかけたんですね。そうしなくてはいられない「なにか」
があったわけです。「スターウォーズ」以前と以後では紀元前/紀元後
くらいの区切りがあるような「出来事」だったのです。映画ごときの話
で…ですが、ほんとうにそんな感じです。

その「スターウォーズ」は、いまだと[4]にあたるわけですけど、
[4]があまりにもエポックメイキングだったために、その後もシリー
ズとして映画を作りつづけることになったと思うのです。
「スターウォーズ」はそのストーリーが神話的…と云われますが、わた
しにとっては[4]の存在そのものが「神話」であって、シリーズが[6]
の「ジェダイの帰還」でいったんは完結した…というのはとてもよく腑に
落ちることでした。

さてそれで「スターウォーズ フォースの覚醒」[7]ですね。
([1]〜[3]はとりあえずスルーします)
ざっくりすぎるかもしれませんが、これって[4]のリメイク…のように、
わたしは受け取りました。選ばれた血統が、隠された場所から「巻きこ
まれ」的に、本人の意思とは違うカタチで(つまり「運命」という意味
づけで)、本来いるべき場所、一緒にいるべき仲間、はたすべき役割へと
導かれ冒険しながら「因縁」の帳尻を合わせる…という。なので、この
[7]は[4・5・6]アップグレード版やりますよ宣言みたいな感じがし
ました。世紀をまたいだ「スターウォーズ4・5・6」はどのようにアップ
グレードされるのでしょうか?

そして[6]の最後の胸を打つ台詞「I've already saved」はどのような
台詞に姿をかえて現れるのか。興味津々たのしみです。


posted by ロビン at 17:34| Comment(0) | 日記

2015年10月03日

「東京は腹が立つ」

数日前「東京は腹が立つ」という標題のブログを読みました。(検索するとでてくると思います)
わたしと、おそらく年齢も性別もやっていることも…なにもかも違う方の言葉が「わかる」こととはほど遠いのですが、東京出身ではない自分にひきつけて「ハッ」とする言葉だと思いました。

わたしは大阪出身ですが、就職で東京にきました。就職についても、確たる「方針」があったわけではなく「実家をでて、ひとり暮らしをしたい」というもので、「仕事」についてきちんと考えていませんでした(そのツケをいまでも払っていると云えると思います)。ひとり暮らしだけなら、大阪などで職を探してもよかったんですが、関西で就職するっていう選択肢が、じぶんのなかにはなかったのがいまでも不思議です。大阪で生まれても「大阪が合わない」場合(笑)というのがきっとあるんだと思います。新卒で就職した会社は丸1年で退社(雇用主からすればハズレ・大迷惑な人材でした)、アルバイトを経て、デザイン会社2軒にお世話になって、現在フリー(個人事業主という扱い)です。おそらく2軒のデザイン会社にとっても「パッとしない」人材のまま、在籍期間も短くやめてしまったクチですね(「東京も合っていない」という疑念が…)。

東京に約四半世紀程度住んでみると、帰省するたびに、どんどん大阪や京都の町並みが変わっていて、とくに大阪は「見知らぬ町」になりました。そのへだたりの感じは「寂しい」という言葉ともちがっているのですが。その間に、東京が「わが町」になったかというと、そういうわけでもありません。東京も変わるスピードが激しくて、気にいってる店も雲散霧消して、馴染みのまち並みや建てものもどんどん建て変わり、ツルツルできれいとしか云えないみょうな質感の場所になってきました。そうはいってもここにわたしの生業があり、ちいさな仲間の輪もあり、身軽にどこかよそへ行ける感じでは、いまのところありませんが。

いまでも(帰省して)新幹線が品川駅手前にさしかかると、「ぼーっとしてちゃダメ!」の回転灯があたまのなかにともり、東京駅に降りると誰に命令されているわけでもないのに「さっさと歩かないと」モードになります。東京はなにもかもがケタ違いに「いっぱい」あって、地方出身者の目線から見ると「日本の中心」な空気が充満してるのです。じっさい生活していると、毎日やることやってるだけでいっぱいいっぱいで、自室(=仕事場)に引きこもって誰とも会わない日もあり、「日本の中心」で暮らしてる感はまったくありません。でも、この「日本の中心」な風情に「腹が立つ」のに勝手な親近感をいだいてしまいます。

そしてこの「腹が立つ」感じを、いろいろな意味でちがっている誰かも感じていることを知り、みょうな安らぎを感じています。「安らぎ」の言葉の使い方として、適切なのかどうかわかりませんが。


posted by ロビン at 15:39| Comment(0) | 日記

2015年09月10日

「その名まえは…聞かなくなったね」

大雨を心配しながら映画を見に行ってきました。「あの日のように抱きしめて」。案の定、邦題と原題はかなりちがいます(笑)。原題は「Phoenix」(不死鳥・火の鳥…みずから火のなかにはいり、焼かれ、その灰から再生するエジプト神話のなかの生きもの)でした。

第二次世界大戦後、強制収容所から生還したネリー。でも顔を撃たれ大けがを負っています。彼女を連れ帰り、手術を受けさせ看病をする友人レネ。退院後、ネリーは収容所にはいることで離ればなれになった夫ジョニーを探しあてますが、顔が変わってしまったことで、妻だと分かってもらえないばかりか、(妻がすでに死んだと思いこんでいる)夫から、「妻に似ている…妻を演じてもらえれば、遺産がはいるので協力してもらえないか」…という話をもちかけられます。
ネリーの世話をする親身な友人レネも、イスラエル建国への参加を夢見て、ネリーへの純粋な友情だけなのか、ネリーが相続する遺産を建国への資金にしようと誘導しているのかがわかりません。夫も、ネリーへの愛情が残っているのか、遺産だけが目当てなのかがわかりません。以前の貌をうしなってしまったネリーには、なにもかもが不確かです。ふつうに考えれば、「妻を演じてほしい」という要望は「論外」でしょうが、外見までかわりはてたじぶんの存在の「ほんとう」らしさにかかわっているからなのか、ネリーは「じぶんを演じる」ことにはまりこんでいきます。
いつ「バレる」のか。
ひさびさに「サスペンス」という言葉の意味をかみしめるような場面の連続に、観客もはまりこんでいきます。

気になった台詞は、「その名まえは…聞かなくなったね」。
夫がネリーに名まえを尋ねる場面で、本名が云えないネリーは「エスター」(たぶん…記憶が間違っているかもしれませんが…ネリーは収容所で亡くなってしまった親族の女性の名まえを咄嗟に口にします)とこたえます。夫は「その名まえは…聞かなくなったね」と云います。きっとユダヤ人女性にポピュラーな名まえだったのでは…と推察しました。名まえを聞かなくなるくらい殺される…小さなせりふに、底知れない恐怖がひそんでいる感じがひしひしとします。
もうひとつは「ドイツの歌はいや」というレネの台詞。聴こえてくるメロディーが耐えられない記憶を呼びさます。どちらも現代と当時の時間的な距離をなにげなく縮める「肌触り」を感じさせる台詞だと思いました。

この映画…ヨーロッパの映画らしく(?)、はなしの背景があまり説明されません。
ネリーはユダヤ人なので収容所に送られましたが、レネは収容所には入らず終戦をむかえたようです。
夫はユダヤ人ではなかったようです。が、ユダヤ人への追求が厳しくなって、しばらくはネリーを知人の船のなかに隠して生活させていたようです。


(ちょっとネタバレになります)


ネリーとレネのあいだには同じユダヤ人でありながら収容所に行ったか、行かなかったか…という断絶があります。レネはイスラエル建国に希望を見いだしますが、ネリーは国どころか、じぶんがじぶんであるかどうかの瀬戸際にいます。じぶんがじぶんであるためには「夫の存在」がひじょうに重要ですが、レネからすれば「ユダヤ人を苦しめた存在」と関係を修復しようとしているネリーを理解しきれず、お互い孤立します。
夫はネリーを愛してはいたのでしょうが、ユダヤ人へのあまりの迫害に、じぶんがユダヤ人と夫婦であることから受ける社会的プレッシャーに勝てません。ひとりひとりそれぞれに「いたしかたない理由…明らかにすれば、それなりに説得力のある理由」があったとしても、そこにはもう二度と超えることができない「溝」がある…ということが厳然とせまってきます。ユダヤ人の配偶者を「売った」妻や夫は現実にいてもおかしくはありません。ネリーとジョニーの物語は、そんなカップルを最大限ドラマチックに描くことに挑戦したものでしょう。
ひるがえって、こんな劇的なドラマにならない…また、物語として容易に他人に語ることができない「溝」を、戦後、かかえて生きたひとはすくなくないでしょう。それを思うと「Phoenix」というタイトルも、ものすごく怖く意味深すぎて、映画のなかに使われた曲「Speak Low」とともに、しばらくは忘れられそうにありません。


posted by ロビン at 19:33| Comment(0) | 日記